🇹🇭「タむの歎史」総解説 YouTube

By | July 29, 2026

スコヌタむ王朝時代1238幎-1438幎では、タ1238幎に、タむ族の酋長であるスリ・むンタラティットがクメヌルの支配から独立を宣蚀し、タむ䞭倮郚のチャオプラダ川流域にスコヌタむ王囜を建囜したした。 䞭倮タむの人々は、「タむ」ずいう名前を自らに䞎え、それは「自由な人々」を意味し.. バンコク タむの䞻な歎史 78侖简 先䜏民の䞭でモヌン族のドノァラノァディヌ人がチャオプラダヌ川流域に王囜を圢成 1112侖简 タむ族によっお圢成された小囜家がクメヌル王朝の支配䞋におかれる スコヌタむ王朝 1238幎1438幎 仏暊1783幎頃1981幎

タむの歎史タむのれきしは、タむ王囜における歎史を時代ごずに抂説する。

先史時代

東南アゞアにおける人類ホモ・゚レクトスの居䜏は、50䞇幎以䞊遡り、タむ北郚のラムパヌン県からは100䞇幎-50䞇幎前ずされる痕跡が認められおいる。珟生のヒトがタむの地域に䜏み始めたのは旧石噚時代からである。タむ各地に点圚した圓時の人々は、郚族単䜍で移動しながら掞窟や岩陰などに䜏み、狩猟・採集・持劎により生掻しおいた。䞭石噚時代ずなる玄1䞇幎前には䞖界的な気候の枩暖化が進み、海面の䞊昇により地圢は倧きく倉化したが、東南アゞアは䜍眮的環境より動怍物盞はあたり倉化しなかったこずから、打補石噚を甚いた生掻圢態が長く続いた。これらの石噚を䜿甚した1侇1000幎前から7500幎前の幎代ずされるホアビニアンによる䞭石噚文化ホビアン文化が東南アゞア各地に広く認められ、タむにも分垃が芋られる。

東北郚

タむ東北郚ずなるむヌサヌン地方のりボンラヌチャタヌニヌ県の東端に䜍眮するパヌテヌムには、4000-3000幎前に描かれた倚くの岩絵が存圚する。たた、りドヌンタヌニヌ県のプヌプラバヌトの岩絵は玄6000幎前のものずもいわれる。このほかノヌンブワラムプヌ県の岩絵などは、䞭囜南郚の花山の岩絵などずの類䌌性が指摘される。なお、岩絵はタむ東北郚のほか、北郚、䞭郚、南郚にも認められる。

新石噚時代になるず様盞が倧きく倉化し、皲䜜が認められる新石噚文化が出珟する。瀟䌚単䜍は、石噚時代のうちに郚族から集萜に進展し、瀟䌚的な組織構成が進んだ。青銅噚の時代になるず、分散した村萜ムヌバヌンから、よりたずたった「ムアン」くにぞず発展しおいった。北郚むヌサヌン地方のノンノクタやバヌンチ゚ン遺跡などの研究によるず、玀元前2千幎玀には、タむに初期の青銅噚文化を持぀集萜があったずいわれる。この発展に䌎い氎皲の耕䜜が認められ、続く玀元前3䞖玀たでにはタむ東北郚で補鉄が開始されたず考えられる。青銅噚やそれに続く鉄噚においおは、タむのほか䞭囜南郚やベトナム北郚に同様の文化が拡散しおいた。

民族

東南アゞアのネグリトであるマニ族がタむ南郚の先䜏民ずしおマレヌ半島に䜏み、か぀おはアンダマン諞語のような蚀語を話したずされるが、珟圚はオヌストロアゞア語族に分類されるモン・クメヌル語掟のケンシり語マニ語を話すこずから、埌に新しい蚀語を受容したず考えられおいる。次いで、東南アゞアのモン・クメヌル語掟の蚀語をも぀モン族およびクメヌル族が到達しおいたずされる。

玀元前2䞖玀頃より、䞭囜からむンド、地䞭海を結ぶ東西亀易におけるシルクロヌドの「海の道」ずも呌ばれる海路が泚目されるようになるず、遠回りのマラッカ海峡を航行せず、マレヌ半島を暪断するルヌトが䜵甚されおいった。そのマレヌ半島の付け根を暪断する地点に存圚したず挢文史料に蚘された頓遜兞孫はモン語系民族であったず考えられる。たた、3-5䞖玀頃になるず、タむ南郚には、盀盀、狌牙脩ランカスカずいった亀易勢力も存圚したこずが蚘されおおり、狌牙脩は埌のパタニパッタヌニヌであるずされる。

珟圚のタむに居䜏し、䞀般にタむ人ず呌ばれる䞻たる民族であるタむ族は、タむ・カダむ語族に属する民族であり、䞭囜の揚子江以南の地域がその起源であるず考えられおいる。やがお黄河流域より勢力を拡倧した挢民族の圧迫を受けるようになるず、およそ6-7䞖玀に䞭囜南郚から䞻に南䞋もしくは西方に向かっお移䜏し始めたずされ、11-12䞖玀になるずメコン川に沿っお倧ムアンが成立しおいった。

叀代囜家

シュリヌノィゞャダ

タむ南郚は、7䞖玀頃に成立したシュリヌノィゞャダ宀利仏逝の圱響䞋にあった。シュリヌノィゞャダは、亀易の芁衝であるマラッカ海峡呚蟺の倚くの枯垂囜家を支配し、タむ南郚のチャむダヌは、海䞊亀易を支配する10䞖玀からのシュリヌノィゞャダ「䞉仏斉」の郜の1぀であったずされる。たた、ナコヌンシヌタンマラヌトリゎヌルの775幎の碑文により、8䞖玀埌半にはゞャワに興ったシャむレヌンドラ朝に属するようになったこずが知られる。

ドノァヌラノァティヌ

6䞖玀末より11䞖玀頃たで、タむ䞭郚のナコヌンパトムを䞭心ずした広範囲なモン族の連合囜家であるドノァヌラノァティヌが繁栄した。

タむ仏教史においおは、玀元前3䞖玀頃、アショヌカ王が諞囜に遣わした䌝道者による䞊座郚仏教が、ドノァヌラノァティヌの郜ナコヌンパトムで信仰され始めたずいわれる。それは䌝道の地名にあるむンド叀語サンスクリットのスノァルナブヌミsuvarṇabhÅ«mi、タむ語: スワンナプヌム、suphannaphum、「黄金の地」の意を、䞭囜ではドノァヌラノァティヌず呌称したずしお、同䞀の地であるずいう説による。ナコヌンパトムは「最初の町」の意ナコヌン〈Nakorn〉「町」、パトム〈Pathom〉「最初」で、圓地にはアショヌカ王時代の創建ずいわれるタむ最叀の仏塔チェヌディヌを内包するプラ・パトムチェヌディヌも存圚するが、考叀孊的蚌拠ならびに仏教幎代蚘によるず、プラ・パトムチェヌディヌの圓初の建蚭は4-6䞖玀であったず考えられる。

ラノォ王囜

モン族の連合囜家ドノァヌラノァティヌの時代には、ラノォロッブリヌ〈矅斛〉は既に䞭心地の1぀であったが、9䞖玀頃よりクメヌル王朝の圱響を受けるようになるず、クメヌルの拠点ずしおドノァヌラノァティヌより独立したラノォ王囜が建囜された。

11䞖玀初頭にクメヌルの王スヌリダノァルマン1䞖圚䜍1002-1050幎が即䜍するず、チャオプラダヌ川流域たで領土を拡倧したクメヌルに領有された。その埌、1113幎に即䜍したスヌリダノァルマン2䞖圚䜍1113-1150幎が死去するず、ラノォはクメヌルから離反する動きを芋せ、1155幎に䞭囜に䜿節を送っおいるが、クメヌルの支配は13䞖玀たで続き、ゞャダヌノァルマン7䞖圚䜍1181-1218幎/1220幎の時代のものずされるクメヌル建築様匏の寺院プラヌン・サヌムペヌトの存圚が知られる。

13䞖玀䞭頃、タむ族によるスコヌタむ王朝の成立により、クメヌルのラノォの支配は衰退した。13䞖玀末にはタむ族の勢力が匷たり、1289幎より1299幎たで元に䜿節を送るなど独立に動き、14䞖玀のアナタダ王朝成立の頃には、同じくか぀おドノァヌラノァティヌの䞭心地の1぀であったスパンブリヌずずもに重芁な䜍眮を占めるようになっおいた。

ハリプンチャむ王囜

䌝説によれば、7䞖玀、ドノァヌラノァティヌのもずにあったラノォの王が、王女チャヌマテヌりィヌチャマデノィ、パヌリ語: Cāmadevīをハリプンチャむラムプヌンに送ったこずにより王囜が成立したずいわれる。しかし、11䞖玀以前の史料はなく、ハリプンチャむの繁栄は11-13䞖玀であったずされる。12䞖玀にはクメヌルのスヌリダノァルマン2䞖が進出し、その埌、1292幎、タむ族のラヌンナヌ王囜の䟵入により占領され壊滅した。

真臘クメヌル

クメヌル族の真臘は、同じくクメヌル族の扶南囜の属囜であったが、5䞖玀䞭頃にはシヌテヌプなどを支配䞋に眮き、7䞖玀初頭、王マヘンドラノァルマンチトラセナもしくは次のむシャヌナノァルマン1䞖の時代に扶南を占領した。706幎頃、陞真臘ず氎真臘に分裂したず䞭囜の史料にあり、陞真臘はサンブノァルマン (Shambhuvarman) が建囜し、沿海郚はラヌゞェンドラノァルマン1䞖が支配したずもいわれる。8䞖玀䞭頃から氎真臘はゞャワのシャむレヌンドラ朝に䟵攻されおいたが、9䞖玀初頭、クメヌル王朝ずしお独立した。クメヌル王朝はその埌、タむ東北郚むヌサヌンよりタむ䞭郚、マレヌ半島北郚ぞず支配を拡倧しおいった。

ラヌンナヌ王囜

メコン支流のコック川流域のタむ北郚には、タむ・ナアン族 (Tai Yuan) を䞭心に、タむ族のムアンの連合ずしおペヌノック (Yonok) ずも呌ばれる囜家的圢態の1぀が認められ、グンダヌンチ゚ンセヌン蟺りを䞭心ずしたその成立は11䞖玀から12䞖玀頃であったず考えられる。

グンダヌンにおいお、タむ・ルヌ族 (Tai Lue) の君䞻マンラヌむが1259幎に即䜍するず、支配域を広げるずずもに南に䟵出し、1262幎に銖郜をグンダヌンからチ゚ンラヌむに、1269幎にはファヌンに移した。1281幎には、7幎間進入を䌁おおいたモン族のハリプンチャむ王囜ラムプヌンを攻撃し、壊滅させた。1296幎、マンラヌむは新しく建蚭したチ゚ンマむに遷郜し、ラヌンナヌ王囜チ゚ンマむ王囜を建囜した。1301幎には倧元りルスの軍勢がラヌンナヌに䟵攻したが、モンゎル軍は「炎瘎䞇里䞍毛之地」ず評されたラヌンナヌの過酷な気候に苊しめられ、撀退に远い蟌たれおいるモンゎルのラヌンナヌ䟵攻。

1338幎、ラヌンナヌの第4代王カムフヌ圚䜍1334-1336幎〈1338-1345幎〉は、タむ族のパダオ王囜を䜵合した。その埌、第9代王ティロヌカラヌト圚䜍1441〈1442〉-1487幎〉の時代には、1443幎にプレヌに䟵攻しおプレヌ王囜を䜵合し、さらに1448幎頃にはナヌンのカヌオ王囜を䜵合するなど著しく勢力が拡倧した。たた、アナタダ・ラヌンナヌ戊争では、1450幎から1462幎にティロヌカラヌトは数床にわたり南進し、アナタダ王朝ず衝突した。

ラヌンナヌの繁栄は、第11代王ケヌオ圚䜍1495-1525幎たで続いたが、治䞖末期の1523幎、チェントゥンに出兵し敗北したこずで、倚くの暩力者や兵士らを倱った。さらに1524幎には氎害もあり、人材ず人口の枛少が囜内を倧きく疲匊させたこずが䞀因ずなり、ラヌンナヌは衰退の䞀途をたどった。王䜍の混乱のうちに、1546幎にはラヌンサヌン王朝からセヌタヌティラヌトを招いおラヌンナヌの囜王に据えたが、2幎埌、セヌタヌティラヌトが王䜍を継ぐためラヌンサヌンに戻るず、さらに混乱は増した。1551幎、ムアンナヌむよりメクティメヌク、圚䜍1551-1564幎が招かれ王䜍に就いたが、1558幎、ビルマの䟵攻によりラヌンナヌはタりングヌ王朝の属囜ずなった。

スコヌタむ王朝

クメヌルの王ゞャダヌノァルマン7䞖が死去した埌、クメヌル王朝が衰退し始めるず、1240幎頃、タむ族の指導者バヌンクラヌンハヌオシヌむンタラヌティット、圚䜍1240-1270幎頃がパヌムアンずずもに、クメヌルの支配するラノォ王囜より独立を宣蚀し、スコヌタむのクメヌル領䞻を远いやりスコヌタむ王囜を建囜したずされる。その埌、スコヌタむには数倚くの仏教寺院が建立されたが、そこにはスコヌタむ王朝以前のゞャダヌノァルマン7䞖の時代に築かれたクメヌル建築様匏のワット・プラパヌむルワンも残存する。

スコヌタむ王朝の初代王シヌむンタラヌティットの子である第3代王ラヌムカムヘヌン圚䜍1279-1298幎頃の時代に、支配する領域は倧きく拡倧しおいった。スコヌタむ王囜はラヌンナヌ王囜ずも同盟を結んでいた。ラヌムカムヘヌンは、1292幎のタむ語最叀のラヌムカムヘヌン倧王碑文「スコヌタむ第䞀刻文」で知られ、タむ文字を考案したずされる。たた、䞊座郚仏教を囜教ずしお掚進した。

しかし、ラヌムカムヘヌンが死去するず、副郜シヌサッチャナヌラむを統治しおいた長子ルヌタむ圚䜍1298-1346幎頃が王䜍に就いたが、各地で離反が盞次ぎ、スコヌタむ王朝は衰退しおいった。その埌、第6代のリタむ圚䜍1347-1368幎頃が即䜍しお呚蟺を治めた埌、郜をスコヌタむから平定した属領ピッサヌロヌクに移した。

この時代に成立したアナタダ王朝の圧力が次第に増し、さらにその攻勢が匷たるず、1378幎、第7代王サむルヌタむマハヌタンマラヌチャヌ2䞖、圚䜍1368-1398幎頃の時代に属囜ずなった。その埌、1438幎に第9代王マハヌタンマラヌチャヌ4䞖圚䜍1419-1438幎が死去し、スコヌタむの王䜍継承者が絶えたこずで、スコヌタむ王朝は実質的にアナタダ王朝に吞収された。

アナタダ王朝

前期

スコヌタむ王朝の衰退の埌、1351幎、りヌトヌンラヌマヌティボヌディヌ1䞖がチャオプラダヌ川ず支流のロッブリヌ川およびパヌサック川が合流する芁衝に、アナタダ王朝前期の「アペヌタダヌ」の郜を開いたずされる。この時代、りヌトヌンの出身地ずもいわれるスパンブリヌやロッブリヌの存圚が倧きかったが、りヌトヌンがラヌマヌティボヌディヌ1䞖圚䜍1351-1369幎ずしお即䜍するず双方を連携させ、スパンブリヌを矩兄王劃の兄パグワに、ロッブリヌを王子ラヌメヌスワンに統治させた。

1369幎にラヌマヌティボヌディヌ1䞖が死去し、ラヌメヌスワン圚䜍1369-1370幎〈埌1388-1395幎〉が即䜍したが、翌1370幎、王䜍を迫ったスパンブリヌのパグワが、ボヌロマラヌチャヌ1䞖圚䜍1370-1388幎ずしお王の座に就いた。しかし、ボヌロマラヌチャヌの死埌、王子トヌンチャン圚䜍1388幎が即䜍したのを機に、ロッブリヌより攻勢に出たラヌメヌスワン圚䜍1388-1395幎が再び王䜍に就いた。その埌、ラヌメヌスワンが死去するず、王子ラヌマラヌチャヌ圚䜍1395-1409幎が王䜍を継承したが、1409幎に王䜍を远われ、それ以降は1569幎、ビルマに占領されるたでスパンブリヌ王家の時代が続いた。

1438幎、スコヌタむ王朝の王䜍継承者が途絶えたこずで、王子ラヌメヌスワンの時代にスコヌタむの王郜ピッサヌロヌクを統治し、1431幎にクメヌル王朝を攻略しおアンコヌルを厩壊させた第7代王サヌムプラダヌボヌロマラヌチャヌ2䞖、圚䜍1424-1448幎が死去するず、スコヌタむ王家の血を匕く第8代王トラむロヌカナヌト圚䜍1448-1488幎が17歳で王䜍を継承した。トラむロヌカナヌト「䞉界の王」の意の治䞖はその埌40幎間続き、サクディナヌ制䜍階田を定めるなど支配機構を敎備した。

䞀方、ビルマのタりングヌを拠点ずするタりングヌ王朝の領土拡倧に䌎い、1540幎、タりングヌの王タビンシュ゚ヌティヌ圚䜍1531-1550幎が、この時代に最も倚く枡来しおいたポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇甚し、軍事力を高めおいた。第䞀次緬泰戊争1548-1549幎では、タりングヌ王朝の将バむンナりンがアナタダに䟵攻したが、アナタダの第16代王チャクラパット圚䜍1548-1569幎も防衛にポルトガル人の傭兵を雇甚しお䟵攻を阻んでいる。この戊いでは、1549幎に王チャクラパット「転茪聖王の意が危機に陥った際、王劃シヌスリペヌタむが身を挺しお呜を助けたずいわれる。

1551幎、タりングヌの王ずなったバむンナりン圚䜍1551-1581幎は、珟圚のシャン州ずなる東郚のシャン族を制圧し、1558幎にはラヌンナヌに䟵攻しお埁服した。第二次緬泰戊争1563-1564幎では、占領したラヌンナヌの軍を率いたバむンナりンがアナタダ王朝のピッサヌロヌクを制圧した。その埌、1568幎に再びアナタダに䟵攻し、翌幎、アナタダはビルマに占領された。このビルマ軍に協力したピッサヌロヌクのマハヌタンマラヌチャヌ圚䜍1569-1590幎が、ビルマ支配䞋の属囜アナタダの第18代王に就いた。

埌期

1581幎にタりングヌ王朝のバむンナりンが死去した埌、タりングヌが混乱状態になるず、1584幎、マハヌタンマラヌチャヌの子ナレヌスワンは機が熟したず芋お、アナタダの独立を宣蚀する。1590幎に王䜍を継いだナレヌスワン圚䜍1590-1605幎は、ビルマ軍を退け、1594幎にはタりングヌぞ䟵攻した緬泰戊争〈1594-1605幎〉。1595幎、ペグヌバゎヌの戊いに勝利し、芁衝のマルタバンを奪い返した。1598幎にラヌンナヌを属囜ずするず、1599幎には再びペグヌからタりングヌにかけお䟵攻した。この第19代王ナレヌスワンの時代に「アナッタダヌ」「無敵の囜」の意の勢力範囲は最倧にたで拡倧し、たた、亀易ずずもに察倖関係の構築が進められた。

1605幎にナレヌスワンが死去し、匟の゚ヌカヌトッサロット圚䜍1605-1610/11幎の時代になるず、䞀局察倖亀易を進展させた。むギリスむギリス東むンド䌚瀟は1605幎にパタニ、1612幎にはアナタダでの商業掻動が蚱可された。

枯垂アナタダの第21代王゜ンタム圚䜍1611-1628幎は、日本人玄800人200-800人を傭兵ずしお雇い、アナタダ日本人町は隆盛を極めた。1612幎頃アナタダに枡来した山田長政は、接田又巊右衛門を筆頭ずする日本人矩勇兵クロム・アヌサヌ・むヌプン、Krom Asa Yipunに入るず頭角を珟わし、王゜ンタムに殊遇された。しかし1628幎の゜ンタム死去による王䜍継承争いの埌、第24代王ずしおプラヌサヌトトヌン圚䜍1629-1656幎が王䜍に就くず、1630幎頃、王の呜什で山田長政は暗殺され、アナタダ日本人町は䞀時焌き払われた。その埌、2幎のうちに日本人町は再興されたが、間もなく日本の鎖囜により朱印船貿易が廃止され、唐船による長厎ぞの貿易は続いたものの、日本人の埀来は途絶えるこずずなった。この時代に日蘭関係を持぀オランダが進出した。

1656幎、プラヌサヌトトヌンが死去するず、王䜍を巡る争奪の埌、プラヌサヌトトヌンの子ナヌラヌむ圚䜍1656-1688幎が第27代王ずしお即䜍した。ナヌラヌむは1661幎にラヌンナヌに攻め蟌み、1662幎にはビルマのペグヌたで䟵攻した。このビルマぞの䟵攻によりむンド掋偎のテナセリムの枯垂メルギヌを支配しお亀易を発展させるなど、この時代に枯垂囜家アナタダの繁栄は最盛期を迎えた。

アナタダ王宀による唐船を利甚した独占貿易に察しお、むギリスやオランダが察立姿勢を瀺すようになるず、1663幎11月から翌1664幎2月にかけお、オランダオランダ東むンド䌚瀟は歊装した2隻の船でチャオプラダヌ川を封鎖し、䞭囜人の唐船を捕獲するなどしお䞀定の貿易の独占を芁求した。ナヌラヌむはこの芁求を受け入れ、1664幎8月に条玄を締結した。このチャオプラダヌ川封鎖の事態を螏たえ、王ナヌラヌむは1665幎、囜に倧事があった時のためにアナタダより䞊流のロッブリヌを副郜ずしお王宮プラ・ナヌラヌむ・ラチャニりェヌトを建蚭した。

ナヌラヌむはたた、むギリスやオランダずの察向により、タむを蚪れたフランスの宣教垫ず接觊し、1673幎にはルむ14䞖ず教皇に芪曞を送り、1680幎以降、フランスに4床䜿節を掟遣した。1685幎12月にはコヌサヌパヌンがフランスに3床目のアナタダ倧䜿ずしお掟遣され蚪仏シャム倧䜿 、1686幎9月、ルむ14䞖に謁芋し、翌幎9月に垰囜しおいる。フランスも1685-1687幎に䜿節を掟遣したが、1687幎9月、フランスフランス東むンド䌚瀟が6隻の軍艊により500人の兵ずずもにむ゚ズス䌚の神父を送り、王ナヌラヌむにカトリックぞの改宗や、亀易の拠点ずしおトンブリヌ珟圚のトンブリヌ区ずメルギヌぞの駐屯を求めたこずにより、フランス勢力に察する危機が台頭した。1688幎3月に王ナヌラヌむが重病になるず、反フランス勢力によるシャム革呜が勃発した。最高顧問であったコンスタンティン・フォヌルコンが6月に凊刑され、7月に王ナヌラヌむが死去するずペヌトラヌチャヌ圚䜍1688-1703幎が第28代王ずしお即䜍し、フランス勢力を䞀掃した。

アナタダ王朝は16䞖玀、1516幎にポルトガルずの条玄締結に始たり、ペヌロッパず接觊したが、䞭囜ずの関係が叀くより最も重芁であった。1709幎に王䜍に就いた第30代王プヌミンタラヌチャヌタヌむサ〈「池の端」の意〉、圚䜍1709-1733幎の時代、䞭囜貿易を䞭心にタむ米の茞出が開始され、オランダ領ゞャワオランダ東むンド䌚瀟やむギリス領むンドむギリス東むンド䌚瀟にも茞出された。たた、ベトナムず手を結んだカンボゞア内の勢力に察しお1720幎に掟兵し䞻暩を維持した。しかし、次の第31代王ボヌロマコヌト圚䜍1733-1758幎の時代もカンボゞアの芪タむ掟ず芪ベトナム掟の察立が続くず、1749幎、再びカンボゞアに掟兵し属囜ずした。しかし、ボヌロマコヌトが死去するず王宀の暩力争いが顕著になり、アナタダ王朝の勢力は䜎䞋した。

アナタダ王朝は、400幎以䞊の繁栄の埌、ビルマに興ったコンバりン王朝ずの泰緬戊争1759-1760幎により、テナセリムタニンダヌリ、マルタバンモッタマ、タノォむダりェむを倱った。その埌、コンバりン王朝の䟵攻による1765幎からの泰緬戊争1765-1767幎により、぀いに1767幎4月、銖郜アナタダは攻め萜ずされ、アナタダ王朝は滅亡した。

トンブリヌ王朝

1766幎から1769幎にかけお枅緬戊争が勃発し、1776幎にはコンバりン王朝のビルマ軍がタむ領からほが撀収しお圧力が匱たったこずもあり、華僑の父ずタむ人の母をも぀タヌクシンが、華僑の支揎のもず、1767幎10月に奪還した芁衝トンブリヌを拠点ずしおアナタダのビルマ勢力を排陀するこずに成功し、1768幎12月末にタヌクシン圚䜍1768-1782幎は王䜍に就いた。トンブリヌ王朝は新銖郜トンブリヌを拠点にアナタダを取り戻すずずもに支配域を回埩し、さらに拡倧を図った。カンボゞアに察しおは、王座を巡る争いに介入し、1771幎よりカンボゞアに2床䟵攻しおいる。たた、ラヌンサヌンは18䞖玀初頭、ルアンパバヌン王囜、ノィ゚ンチャン王囜、チャンパヌサック王囜に分裂しおいたが、1778幎にはノィ゚ンチャンずチャンパヌサックを攻略し、ルアンパバヌンを属囜ずした。

しかし、1770幎代末より仏教に専心し、やがお粟神的に偏重性を瀺したずされる王タヌクシンは、1782幎初頭、クヌデタヌにより远い詰められ、カンボゞア遠埁から戻ったチャオプラダヌ・チャクリヌにより同幎4月6日凊刑された。

チャクリヌ王朝

チャオプラダヌ・チャクリヌはラヌマ1䞖圚䜍1782-1809幎ずしお王を継ぎ、埌にプラプッタペヌトファヌチュラヌロヌクず呌ばれるチャクリヌ王朝ラッタナヌコヌシン王朝の初代王ずなった。ラヌマ1䞖は、右岞のトンブリヌからチャオプラダヌ川を枡った巊岞に新しい銖郜バンコククルンテヌプを建蚭し、珟圚に続くチャクリヌ王朝が始たった。王宮および王宮内寺院のワット・プラケヌオ゚メラルド寺院が建造されるず、ラヌマ1䞖がか぀おのノィ゚ンチャン攻略により持ち垰り、ワット・アルンに安眮しおいた゚メラルド仏を移しお祀った。新郜名にあるラッタナヌコヌシンずは「むンドラ神の宝石」の意で、゚メラルド仏のこずを指す。

長くビルマの勢力䞋にあったラヌンナヌが1804幎にビルマ軍を䞀掃したこずで、チャクリヌ王朝の支配域に眮かれるなど、この時代にトンブリヌ王朝よりさらに勢力は拡倧した。ラヌマ2䞖圚䜍1809-1824幎の時代になるず、1821幎にタむのムアン、ナコヌンシヌタンマラヌト王囜によりケダ・スルタン囜を埁服し、統治を開始した。圓時、ペナン島を1786幎以来占領により領有しおいたむギリスは、貿易の混乱を恐れ、䜿節をバンコクに掟遣しお倖亀亀枉を行ったがほずんど成功せずに終った。

19䞖玀、タむのラヌマ1䞖以降の支配者がアゞア地域におけるペヌロッパ列匷の力を認識したのは、隣囜のコンバりン王朝が1824幎からの第䞀次英緬戊争によりむギリスに敗北し、䞀郚領土を倱うなど、ペヌロッパ諞囜の脅嚁に晒されたこずによる。ラヌマ3䞖圚䜍1824-1851幎は、1826幎、むギリスず通商条玄バヌネむ条玄を締結し、1833幎にはアメリカずも倖亀䞊の条玄を亀わした。

この時代、ベトナムで1802幎に成立した阮朝が匷勢になり、タむずベトナムずのカンボゞアの芇暩を巡る争いが倧きくなった。タむがカンボゞアの支配を狙っお起こした泰越戊争1831-1834幎においお、1832幎にタむはカンボゞアに䟵攻したが、ベトナム阮朝ずずもにカンボゞアが反撃に転じるず、タむは撀退し、1834幎にはベトナムがカンボゞアを掌握した。その埌、タむが再びカンボゞアの支配のために起こした泰越戊争1841-1845幎の結果、1845幎、タむずベトナム䞡囜でカンボゞアを共有する講和条玄が締結された。この結果、1847幎にアン・ドゥオンがカンボゞア王に即䜍したが、密かにカンボゞア領内の䞀定の支配暩を埗るため、シンガポヌルのフランス領事を通じおナポレオン3䞖に揎助を芁請しようずした。しかし、それは事前にタむに情報が挏れたこずで倱敗に終わった。

近代化

タむがペヌロッパ勢力ずの間に囜亀を確立したのは、ラヌマ3䞖の異母匟であるラヌマ4䞖モンクット、圚䜍1851-1868幎ず息子のラヌマ5䞖チュラヌロンコヌン、圚䜍1868-1910幎の統治䞭のこずであった。1840幎からのアヘン戊争における倧囜の枅の敗北はタむにずっおも倧きな衝撃であったが、この2人の君䞻の倖亀手腕がタむ政府の近代化改革チャクリヌ改革ず結び付いたこずによっお、タむ王囜はペヌロッパによる怍民地支配から免れた東南アゞアで唯䞀の囜になった。タむはむギリスずフランスの怍民地に挟たれお、䞡倧囜の緩衝囜ずなったこずも独立の維持に圹立った。

1852幎の第二次英緬戊争の結果、むギリスは䞋ビルマを獲埗しおいた。ラヌマ4䞖は、1855幎にむギリスず通商貿易に関する条玄ボりリング条玄を締結した。たた、フランスは1862幎にベトナム南郚のコヌチシナを獲埗し、翌1863幎にはカンボゞアに保護囜条玄を結ばせるず、タむはカンボゞアの宗䞻暩を䞻匵し、カンボゞアもタむに察する服属を耇合的に瀺したが、1867幎、぀いにタむはフランスの求めに応じ、北西郚を陀くカンボゞアのフランス支配暩を認める条玄を締結するこずずなった。

䞀方、1779幎よりタむの属囜ずなっおいたルアンパバヌン王囜は、倪平倩囜の乱の末裔の䞭囜人匪賊ずしお各地に䟵攻したホヌにより1872幎以来襲撃された。タむが軍を掟遣したこずでいったん沈静化しおいたが、1885幎、再床襲撃が掻発になるず、タむは蚎䌐の軍を送り、フランスもたたシップ゜ヌンチュタむに軍を掟遣した。これによりホヌの襲撃は治たりを芋せたが、ルアンパバヌンにはフランス副領事通が眮かれるこずずなった。その埌、1887幎にルアンパバヌンは再びホヌにより襲撃された。すでに軍は撀退しおおり、圓時囜王であったりンカムずその家族はこの襲撃により危機に晒されたが、フランス副領事通のオヌガスト・パノィにより救出され、逃亡に成功しおいる。このホヌ軍の襲撃は、ルアンパバヌンに囜王を救出したフランスぞの信頌感を産み出す契機ずなった。たた、枅仏戊争で1885幎に枅からベトナムに察する宗䞻暩をフランスが奪取したこずも、ルアンパバヌン王囜がフランスの保護を受け入れる遞択を埌抌しした。ルアンパバヌン王囜のフランスによる保護囜化を䞍服ずしたタむも、1893幎の仏泰戊争パヌクナム事件に敗戊した結果、ラオスがフランス保護䞋に眮かれるこずが確定し、1899幎、ラオスはフランス領むンドシナに線入された。

むギリスは1885幎の第䞉次英緬戊争の結果、1886幎にはビルマ党域を獲埗しおいた。1890幎代にむギリスずフランスが、ビルマずラオスの接するメコン川に向い合うようになるず、1896幎、むギリス・フランス䞡囜は、タむのチャオプラダヌ川流域に関する英仏宣蚀を発衚しお玛争を回避し、タむをむギリス・フランス䞡囜の緩衝地垯ずしお残すこずが定められた。1904幎にはフランスずの協定でチャンタブリヌがタむに返還される代わりに、ルアンパバヌンのメコン川西岞ラヌンチャヌン〈ラヌンサヌン〉ずチャンパヌサックおよびマノヌプラむムルプレむ、それにトラヌトずダヌンサヌむを割譲し、1907幎の条玄では、トラヌトずダヌンサヌむが返還されたが、タむはカンボゞアのバタンバン、シェムリアップ、シ゜ポンを割譲した。たた、1909幎のむギリスずの条玄英泰条玄においお、珟圚のマレヌ半島の4州クランタン・トレンガヌ・ケダ・プルリスを割譲した。タむはこれらの条玄の締結により倚くの領土を手攟したが、䞀方でチャオプラダヌ川流域以倖に、東北郚およびマレヌ半島などのタむ領を維持した。

1910幎、ワチラヌりットがラヌマ6䞖圚䜍1910-1925幎ずしお王䜍を継承するず、王盎属の矩勇郚隊である囜土防衛隊「スアパヌ」野虎隊〈猛虎団〉を創蚭した。これに察しお1912幎には絶察君䞻制に反察し、立憲䞻矩を求める軍郚の青幎により、初めおの立憲革呜蚈画ずもいえるクヌデタヌ (英: Palace Revolt of 1912) が䌁おられたが、事前に発芚し100人以䞊が逮捕され倱敗に終わった。しかし、この20幎埌に起こった立憲革呜により、長きにわたった絶察君䞻制は幕を閉じるこずになる。

第䞀次䞖界倧戊

1914幎7月28日、第䞀次䞖界倧戊が勃発するず、タむは盎埌の8月6日に䞭立を宣蚀しお戊況をうかがい、その埌、1917幎4月のアメリカ参戊により連合囜が有利ず芋極めたラヌマ6䞖は、7月22日に連合囜偎ずしおドむツ垝囜およびオヌストリアハンガリヌ垝囜に宣戊した。これにより列匷諞囜ず䞊んだずしお、同幎9月28日、タむの囜旗を連合囜のむギリス・フランス・アメリカの囜旗の色ずも䞀臎する珟圚の3色旗に倉曎した。タむはペヌロッパに自動車茞送郚隊ず飛行郚隊ずなる遠埁軍英: Siamese Expeditionary Forces1200人䜙りを掟遣し、茞送郚隊の䞀郚はフランス軍ずずもに䞀時ドむツの戊地に配備された。この参戊により戊勝囜の地䜍を埗たタむは、1919幎のパリ講和䌚議に列垭し、囜際連盟にも参加した埌、むギリスやフランスなどず結ばれた䞍平等条玄の改正を進め、1937幎にはこれらの条玄が党お改正された。

立憲革呜

1925幎にラヌマ6䞖の末匟プラチャヌティポックがラヌマ7䞖圚䜍1925-1935幎ずしお王䜍を継承するず、前王の近代化政策による財政悪化の改善を図ったが、1929幎に始たった䞖界恐慌をきっかけにタむの財政が再び悪化し、絶察王政に察する䞍満が高たっおいった。1927幎、ペヌロッパに留孊しおいた孊生7人により、タむの政治䜓制の倉革を目指す秘密結瀟ずしお結成された人民党が、1932幎初頭、立憲改革を目論む軍の内郚グルヌプず結束し、同幎6月24日、バンコクでクヌデタヌによる「立憲革呜」を決行した。

ラヌマ7䞖は人民党の芁求を受諟し、6月27日に臚時憲法が制定されたこずで、王や王族は存続するものの、タむの政治䜓制は絶察君䞻制絶察王政から立憲君䞻制ぞず移行した。これに基づき盎ちに翌28日、囜䌚ずしお人民代衚議䌚が開䌚されたが、議䌚は䞀院制であり、党員が人民党の任呜議員であった。この議䌚においお同日、王宀ずの仲介圹ずしお非人民党員のプラダヌ・マノヌパコヌン圚任1932-1933幎が銖盞に遞出された。たた、12月10日には新憲法が公垃されたが、この恒久憲法も実質的に10幎埌の遞挙たで人民党単独政暩を確保できるものであった。

立憲革呜の埌、翌1933幎には人民党を䞻導する急進掟の政策案により穏健掟ずの決裂が生じたこずで早くも政情が䞍安定ずなる。6月20日、䞀郚急進掟ず人民党掟軍郚がクヌデタヌを起こし、その指導者ずしお擁立されたブラダヌ・パホン1933-1938幎が銖盞に就任した。これに察しお10月11日、元陞軍倧臣のボヌりォヌラデヌト芪王の反乱により東北郚の軍が進攻したが倱敗し、芪王はフランス領むンドシナに亡呜した。たた、人民党政府に反発したラヌマ7䞖も、1935幎3月、圓時9歳の甥ラヌマ8䞖アヌナンタマヒドン、圚䜍1935-1946幎に王䜍を譲った。

その埌、人民党の圓初からの構成員であり、1933幎のクヌデタヌの䞭心にもいたプレヌク・ピブヌン゜ンクラヌム圚任1938-1944幎〈埌1948-1957幎〉が実暩を握り銖盞に就くず、1939幎6月、囜名を「シャム」から「タむ」に倉曎した。

第二次䞖界倧戊

1939幎9月にペヌロッパで第二次䞖界倧戊が勃発し、盎埌にタむは䞭立宣蚀を出したが、1940幎9月に日本軍がフランス領むンドシナに進駐するず、ピブヌン゜ンクラヌムはこの倉化を機にフランス領むンドシナず囜境玛争を起こした。タむの芁求を拒吊したフランスは11月28日にタむ偎を空爆し、タむ・フランス領むンドシナ玛争の開戊ずなった。翌1941幎1月にはフランスの優勢が芋えたが、タむは日本の仲介により、5月9日にフランスず東京条玄を締結し、1904幎ず1907幎にタむが割譲した領土のほずんどを自囜領ずしお䜵合するに至った。

その埌、1941幎12月8日、むギリスやアメリカなど連合囜に宣戊した日本軍が、むギリスが支配しおいたマレヌ半島ぞ向かいマレヌ䜜戊、むギリス領マラダのコタバルず同じく、タむ南郚の゜ンクラヌシンゎラやパッタヌニヌパタニに䞊陞した第䞀次マレヌ䞊陞䜜戊。タむ軍らは抗戊を開始したが、同日、タむは日本軍の通過を認めた。12月11日に日本ず協定を結んだ埌、日本軍の緒戊の勝利を背景に、21日には正匏に日泰攻守同盟条玄を締結し、日本の同盟囜ずなった。その翌幎の1942幎1月8日にむギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブヌン゜ンクラヌムはむギリスずアメリカに宣戊垃告し、タむは枢軞囜ずしお参戊するこずずなった。

むギリス統治䞋のビルマに日本軍が進攻日本軍のビルマ進攻䜜戊を開始するず、タむは領土の拡倧を目指しお1942幎5月に北郚より進軍し、ビルマ東郚のシャン州を占領した。たた、日本軍はタむのノヌンプラヌドゥックずビルマのタンビュザダの延長415キロメヌトルを結ぶ泰緬鉄道の建蚭を1942幎6月に着工し、翌1943幎10月に開通させた。領土獲埗を期埅したタむは、圓初、同盟を結んだ日本の過倧な芁求にも応じおいたが、その埌、タむは日本の䞀方的な暩益拡倧に察しお䞍信を匷めおいった。

䞀方、日泰攻守同盟条玄をもずに、タむが日本の同盟囜になり日本軍を駐留させるのを芋お、圓時、駐米倧䜿であり埌に銖盞になるセヌニヌ・プラヌモヌトは、1942幎3月、「自由タむ」英: Free Thaiずいう抗日運動をアメリカでタむ人倖亀官や留孊生らず組織した。この掻動はむギリスのタむ人留孊グルヌプにたでおよび、むギリスは自由タむの志願者をむギリス兵ずしお受け入れ、特殊蚓緎を斜しお情報機関員を逊成した。たた、タむ囜内においおも、ピブヌン゜ンクラヌム内閣の閣僚であるプリヌディヌ・パノムペン摂政で埌の銖盞が抗日組織を蚭けお参加し、連合囜偎ずの連絡を図っおいた。1943幎12月-1944幎1月には連合囜軍の空爆が本栌化し、戊局の悪化ずずもに、プリヌディヌによる自由タむ運動は掻発化し、1944幎7月にピブヌン゜ンクラヌム内閣が総蟞職したこずで、クアン・アパむりォン圚任1944-1945幎〈埌1946幎1-3月・1947-1948幎〉の新内閣が成立した。クアン内閣は閣僚に自由タむの指導者3人が入閣するなど、急速に連合囜ずの関係を匷めたが、日本に察しおは自由タむ運動の支揎などないように振る舞っおいた。しかし、1945幎には囜内各地に自由タむの軍事キャンプが、日本軍ぞの攻撃に向けお蚭営されおいった。

戊埌

日本ずの衝突の盎前に、日本が1945幎8月に連合囜に察しお敗北するず、8月16日にプリヌディヌは「タむの宣戊垃告は無効である」ず宣蚀し、むギリスに察しおは、日本より移管されたシャン州やマラダの州を返還するこずを衚明するなど、連合囜ずの敵察関係を終結させようずした。アメリカは盎接的に利害関係のないこずから、8月21日、タむは日本の占領囜であったずしお、この宣戊無効宣蚀を受け入れたが、むギリスはすぐに応じず占領軍を掟遣するこずずなった。これを考慮しお、総蟞職したクアン内閣に代わり、駐米倧䜿で自由タむを組織しアメリカおよびむギリスずも関係の深いセヌニヌ・プラヌモヌト圚任1945-1946幎〈埌1975幎2-3月・1976幎4-10月〉が遞挙され、タりィヌ・ブンダケヌト暫定政暩の埌、9月17日より銖盞に就いた。その間、9月2日にむギリス領むンド軍2侇7000人が到着し、日本軍の歊装解陀が進められた。その埌、アメリカの支揎のもずにむギリスず亀枉した結果、1946幎1月に宣戊垃告の無効を確認し、原状埩垰および領土の返還などの諞条件により平和条玄が締結された。

セヌニヌ内閣がその1946幎1月に退陣し、再び就任したクアン・アパむりォンが3か月で銖盞を蟞任した埌、自由タむのプリヌディヌ・パノムペン圚任1946幎3–8月が次の銖盞に就いた。䞀方、5月に領土の返還を求めるフランスがタむ領を攻撃し、囜際瀟䌚ぞの埩垰を優先せざるを埗ないタむは、1941幎に䜵合した領土の匕き枡しに応じ、ナコヌン・チャンパヌサック県チャンパヌサック州、ピブヌン゜ンクラヌム県シェムリアップ州、プレアタボン県バタンバン州の3県がフランスに返還された。これにより1946幎11月、フランスずも終戊協定が成立するこずになる。タむの領域は1909幎に定められた状態に戻ったが、巧劙な政治手腕により、タむは連合囜による敗戊囜ずしおの状況を早期に免れた。

1945幎に成人したラヌマ8䞖は、12月にスむスより垰囜したが、1946幎6月9日、額を銃匟が貫通した䞍可解な状況で死亡した。倉死したラヌマ8䞖に続いお18歳で即䜍した匟のラヌマ9䞖プヌミポン・アドゥンダデヌト、圚䜍1946-2016幎は、タむ王囜で最も長く王䜍に就き、タむ囜民に非垞に人気のある君䞻ずなった。プリヌディヌは、1946幎5月に初めお耇数政党制を認める新憲法を制定したが、8月の総遞挙埌に蟞任し、プリヌディヌの埌任ずしお自由タむのタワン・タムロンナヌワヌサワット圚任1946-1947幎が次の銖盞に就いた。

軍事政暩

1947幎11月、ピブヌン゜ンクラヌム退陣以来冷遇されおいた陞軍による軍事クヌデタヌが発生し、プリヌディヌは囜倖に亡呜した。1946幎憲法は廃止され、暫定憲法が公垃されるず、察倖的な配慮により民䞻党のクアン・アパむりォンが銖盞に擁立された。しかし、囜軍叞什官ずなったピブヌン゜ンクラヌムは、翌1948幎4月、陞軍の圧力によりクアンの蟞任を䜙儀なくさせ、「ピブヌンの埩掻」ず呌ばれるピブヌン゜ンクラヌムによる軍事政暩1948-1957幎が開始された。䞀方、1949幎2月のプリヌディヌず海軍によるクヌデタヌは倱敗し、自由タむは終焉を迎えた。

1949幎3月、1947幎暫定憲法ずほが同じ「氞久憲法」が公垃されたが、1951幎6月に海軍によるクヌデタヌを再び鎮圧するなど政情が䞍安定ずなるなか、1951幎11月29日、自ら「銃声なきクヌデタヌ」サむレント・クヌデタヌ〈ラゞオ・クヌデタヌ〉により1932幎恒久憲法を埩掻させ、議䌚や政党を廃止した。

ピブヌン゜ンクラヌム政暩䞋においお譊察長官であったパオ・シヌダヌノンや陞軍叞什官のサリット・タナラットが重甚され勢力が匷たるず、1957幎9月、「兵士団」を率いたサリットのクヌデタヌにより、ポット・サヌラシン暫定政暩が誕生し、12月の総遞挙によりサリットの郚䞋第1管区軍叞什官であったタノヌム・キッティカチョヌン圚任1958幎1月-12月〈埌1963-1973幎〉政暩が成立した。その埌、1958幎10月にサリットが「革呜」ず称したクヌデタヌを経お、サリット・タナラット圚任1959-1963幎自身による軍事政暩が誕生した。サリットは囜王の嚁信回埩を図る「タむ匏民䞻䞻矩」を説くこずで匷暩的支配䜓制を正圓化し、䞀方、囜の開発を掲げおむンフラストラクチャヌの敎備や高い経枈成長を実珟した。この時期、1961幎のフォヌドの工堎を初めずしお、日本からの自動車メヌカヌも倚く進出した。1963幎12月にサリットが死去するず、タノヌム・キッティカチョヌンが再登板し、陞軍倧将であった補䜐圹のプラパヌト・チャヌルサティアンずずもに「タノヌムプラパヌト䜓制」ず称される長期軍事政暩1963-1973幎ずなった。

冷戊

1949幎に䞭華人民共和囜が成立し、共産䞻矩の拡倧による東南アゞアの冷戊期には、ベトナム北ベトナムおよびラオスパテヌト・ラヌオ、ビルマビルマ匏瀟䌚䞻矩、カンボゞアクメヌル・ルヌゞュのような近隣諞囜の共産䞻矩革呜に脅かされた。たた、囜内においおもタむ共産党を䞭心ずしお拡倧する共産䞻矩勢力に察抗し、タむは共産䞻矩の防波堀ずしおアメリカの支揎を受け、東南アゞア条玄機構英: Southeast Asia Treaty Organization、略称: SEATOの䞀翌を担った。

ベトナム戊争ではアメリカ偎に立ち、南ベトナムぞの掟兵クむヌンコブラ、英: Queen’s Cobras、埌・黒豹垫団、英: Black Panthersを行い、北ベトナム爆撃北爆のための䟛䞎ずしお圚タむ米空軍基地の開蚭も蚱可した。1966幎4月にはりタパオ基地よりハノむに向けお爆撃機B52が進発した。タむはアメリカ軍の補絊や兵の滞圚のための埌方基地であったため、タむは経枈的に発展し、パッタダヌパタダなどのリゟヌト開発も進んだ。ベトナム戊争が激化する䞭、1967幎8月8日に東南アゞア諞囜連合英: Association of South‐East Asian Nations、略称: ASEANの蚭立がタむのバンコクにおいお宣蚀された。

民䞻化運動

孊生らのベトナム反戊運動を契機に、タノヌムプラパヌト政暩の暩嚁䞻矩䜓制に反察する勢力が次第に増すず、1973幎10月14日、遂にタマサヌト倧孊からラヌチャダムヌヌン通りにわたり集結した40䞇人䜙りのデモ隊ず衝突した譊察・軍の発砲により、死者77人・負傷者444人に及ぶ倧惚事が発生した。この「十月革呜」ずも呌ばれる血の日曜日事件10月14日政倉〈10・14政倉〉の勃発でタノヌムらは退陣し、囜王ラヌマ9䞖により、タマサヌト倧孊長であったサンダヌ・タンマサック圚任1973-1975幎が暫定政暩の銖盞に任呜された。1974幎11月に新憲法が制定され、翌1975幎、セヌニヌの埌、匟であるククリット・プラヌモヌト圚任1975-1976幎が銖盞を務めた。

1975幎7月にアメリカ軍がタむから撀収した埌、セヌニヌが再登板した1976幎には、孊生・垂民ず右翌組織ずが察峙しお民䞻化運動の危機ずなった。8月、プラパヌトの䞀時垰囜に続き、僧ずなったタノヌムの垰囜が匕き金ずなり孊生運動が暎発するず、10月6日に血の氎曜日事件タンマサヌト倧孊虐殺事件が起こり、譊察・右翌集団ノィレッゞスカりト・赀い野牛・ナワポンらにより孊生運動が匟圧され、死者46人100-200人以䞊ずも・負傷者160人・逮捕者2000人䜙りにおよんだ。そしお、軍郚がクヌデタヌを宣蚀するず、反共䞻矩をずるタヌニン・クラむりィチ゚ン圚任1976-1977幎がしばらく銖盞を務めた埌、再びクヌデタヌにより軍事政暩期に入るこずになった。

調敎型政治

1977幎から軍最高叞什官のクリ゚ンサック・チョマナン圚任1977-1980幎による政暩が敷かれ、民䞻化の時代は終ったが、その政治は調敎型の姿勢を取り民䞻化勢力ずの調和が図られた。䞀方、隣囜カンボゞアに誕生したポル・ポト政暩は、1977幎よりベトナム囜境で玛争をしかけ、1977幎末にはベトナムず囜亀を断亀した。その埌、1978幎末から1979幎初頭にベトナムがカンボゞアに進軍したこずから、倚くのカンボゞア難民がタむに逃れた。同じく1979幎にはベトナムからのボヌトピヌプルも急増した。

次いで、陞軍叞什官であったプレヌム・ティンスヌラヌノン圚任1980-1988幎政暩時代は半分の民䞻䞻矩」などず称されるように、サリットのタむ匏民䞻䞻矩ず同様、囜王や軍の存圚を前提ずし぀぀も議䌚制民䞻䞻矩を重芖し、タむ共産党勢力ずも調敎を図った。これにより2回の軍郚急進掟によるクヌデタヌ未遂事件などがあったものの比范的平穏であり、経枈成長ぞの道筋を぀けた。ただし、ラオスずの囜境においおは、1980幎6月14日、メコン川を挟んだタむ・ラオスの囜境譊備隊の間にお銃撃事件が発生したこずより、タむは解陀に動き぀぀あった囜境封鎖に察しお、再び歯止めをかけた。加えお1984幎5月には、ラオスのサむニャブヌリヌ県ずタむのりッタラディット県の狭間に䜍眮するラオス領の3぀の村をタむ囜軍が䞍法に占拠しおいるずしお、領土暩を巡る囜境玛争が勃発した䞉村事件。タむは同幎10月15日、囜軍が撀兵したずの声明を発衚し、䞉村事件は䞀旊沈静化した。その埌、1987幎12月に再びタむ・ラオス囜境付近で䞡軍が衝突し、翌1988幎2月たで戊闘状態に陥ったが、䞡囜代衚団により和平亀枉が実斜され、停戊協定が結ばれた。

文民政暩

1988幎7月の総遞挙で第䞀党ずなった囜民党タむ民族党のチャヌトチャヌむ・チュンハワン圚任1988-1991幎政暩は、1976幎の第3次セヌニヌ内閣以来の文民政暩であったが、奜景気ずずもに政治的実業家による利暩政治が蔓延した。䞀方、軍の暩益を軜芖したこずにより、1991幎2月23日に陞軍叞什官スチンダヌ・クラヌプラナヌンらが軍事クヌデタヌを起こし、チャヌトチャヌむは倱脚したが、プレヌム政暩以来の民䞻化の定着やクヌデタヌ埌の察倖的な配慮などにより、倖亀官出身のアナン・パンダヌラチュン圚任1991-1992幎が掚薊され、暫定政暩ずしお3月6日、䞀時文民政暩が誕生した。

暗黒の5月事件

アナン政暩によりクヌデタヌ埌も経枈は順調に掚移したが、1992幎4月7日、銖盞に就任しないず明蚀しおいたスチンダヌ・クラヌプラナヌン圚任1992幎4-5月が銖盞に就き、新政暩の成立したこずに囜民は反発し、4月䞋旬には蟞任を芁求する倧芏暡運動に発展した。その埌、5月17日の抗議デモにおいお40䞇人䜙りにのがる矀集に察し、ラヌチャダムヌヌン通りで衝突した軍・譊察が、5月18日から19日にかけお発砲し、3日間で死者53人・負傷者759人に及ぶ暗黒の5月事件5月流血事件が発生した。これによりスチンダヌは銖盞を蟞任しお、アナンが暫定政暩の銖盞に埩垰し、文民政暩の暹立に繋がった。

1992幎9月の総遞挙においお、旧野党の民䞻党が躍進し、チュワン・リヌクパむ圚任1992-1995幎〈埌1997-2001幎〉内閣ずなるず、チュワンは王制を堅持する民䞻䞻矩を唱えた。1995幎7月、囜民党のバンハヌン・シラパアヌチャヌ圚任1995-1996幎が銖盞に就いた埌、1996幎11月には新垌望党のチャワリット・ペンチャむナット圚任1996-1997幎が銖盞ずなり、1997幎7月からの通貚危機のなか、同幎9月に新憲法が可決され翌10月に公垃された埌、経枈危機により11月に蟞職したチャワリットに代わり、民䞻党のチュワンが再び就任した。

タクシン䜓制

2001幎、経枈情勢がいただ通貚危機の圱響にあるなか、新憲法のもずで総遞挙が行われ、1998幎にタむ愛囜党を創蚭した䞭囜系タむ人のタクシン・シナワット圚任2001-2006幎による新政暩が2001幎2月に誕生した。タむが先進囜ずなるこずを目指した実業家のタクシンは「囜は䌁業であり、銖盞は囜の最高経営責任者英: Chief executive officer、略称: CEOである」ずしお、暩力集䞭による匷暩的な政治運営を行ったが、䞀連の経枈政策の成果などにより、2005幎2月の総遞挙においおタむ愛囜党が圧勝した。

政治混乱

2006幎クヌデタヌ

2006幎1月、銖盞タクシン䞀族の䞍正蓄財疑惑が発端ずなり、囜玉慶賀圚䜍60幎による「黄色のシャツ」を着た反タクシン運動が拡倧するず、翌2月には民䞻垂民連合英: People’s Alliance for Democracy、略称: PADが結成され、集䌚の芏暡は䞀時10䞇人䜙りずなった。タクシンは囜䌚の解散ず総遞挙により䞀時銖盞の座を離れたが、再び暫定銖盞ずしお埩垰するこずに批刀が高たり、䞀方、軍内でも反タクシン掟が勢力を争い、事態が膠着するなか、タクシンが囜際連合総䌚のためタむを離れおいた9月19日に軍事クヌデタヌが起こった。クヌデタヌより12日埌の10月1日には暫定憲法が公垃され、陞軍総叞什官であったスラナット・チュラヌノン圚任2006-2008幎が銖盞に指名された。これ以降、タむではデモや暎動が盞次ぎ、政治混乱が続くこずになる。

2008幎政治危機

2007幎12月の総遞挙により、2008幎2月に「タクシンの代理人」を暙抜するサマック・スントラりェヌト圚任2008幎2月-9月内閣が成立するず、2月28日、元銖盞タクシンが垰囜した。民䞻垂民連合 (PAD) は反タクシン運動を再開し、8月26日にはサマックの退陣を求める倧芏暡掻動を行い、銖盞府などを占拠した。これに察しおタクシン支持掟の反独裁民䞻戊線英: United Front of Democracy Against Dictatorship、略称: UDDらは「赀色のシャツ」を着お民䞻垂民連合 (PAD) に察抗し、9月2日の衝突においおは政暩掟1人が死亡した。

9月9日、憲法裁刀所の刀決によりサマックは倱職し、次いでタクシンの効ダオワパヌ・りォンサワットの倫であり副銖盞であった゜ムチャヌむ・りォンサワット圚任2008幎9-12月が就任したが、その所信衚明挔説が行われる10月7日、民䞻垂民連合 (PAD) は前倜より囜䌚を包囲し、議員の入構を阻止した。譊察はデモ隊に催涙匟を撃ち、衝突は死者2人・負傷者500人䜙りの惚事ずなった。この「10月7日事件」の埌、民䞻垂民連合 (PAD) は11月25日、スワンナプヌム囜際空枯を占拠するずいう過激行動を起こしたが、12月2日、憲法裁刀所が䞎党3党囜民の力党・囜民党・䞭道䞻矩党に解党および゜ムチャヌむらに倱職を呜じたこずで終結した。

2009幎政情䞍安

゜ムチャヌむ政暩の厩壊埌、民䞻党のアピシット・りェヌチャチヌワ圚任2008-2011幎が銖盞に遞出されたが、今床は反独裁民䞻戊線 (UDD) がアピシットの所信衚明を劚害し、2009幎初頭より反政府集䌚を繰り返し実斜した。3月末の2䞇人の集䌚では元銖盞タクシンが動画で挔説し、さらに4月11日にはパッタダヌパタダで開催予定であった東アゞアサミットの䌚堎に乱入した。その埌、バンコクでもデモ隊が暎動を起こしたこずで軍が制圧を行い、負傷者100人以䞊ずなる事態が発生した。

2010幎反政府デモ

2010幎、タクシン䞍正蓄財の没収刀決を䞍圓ずしお、議䌚の解散ず総遞挙の実斜を求める反独裁民䞻戊線 (UDD) の抗議掻動が3月より再び掻性化するず、3月14日にバンコクの倧通りを占拠し、4月3日にはデモ隊が郜心の商業地区䞀垯を占拠する事態ずなり、その埌さらに拡倧するず、治安郚隊ずの衝突により4月10日、日本人カメラマンを含む死者25人・負傷者800人以䞊の倧惚事ずなった暗黒の土曜日。

4月22日には砲匟6発により䞀般垂民1人が死亡・100人近くが負傷した。その埌、5月13日には反独裁民䞻戊線 (UDD) 幹郚1人が狙撃されたこずでデモ隊ずの衝突が悪化したが、5月19日、治安郚隊突入による抗戊の埌、反独裁民䞻戊線 (UDD) はデモ解散を宣蚀した。この2か月䜙りに及ぶ反政府デモず治安郚隊による犠牲者は、死者90人以䞊・負傷者2100人以䞊にのがった。

タむ措氎

2011幎、タクシンの効むンラック・シナワット圚任2011-2014幎がタむ史䞊初の女性の銖盞ずなるず混乱は䞀時終息したかに芋られた。しかし、8月のむンラックの就任埌すぐにタむ措氎ずいう未曜有の危機に芋舞われるこずずなった。9月䞋旬、チャオプラダヌ川より平野郚に氟濫した流氎は䞭郚より次第に南䞋し、10月4日にアナタダ県のサハラッタナナコヌン工業団地、9日にロヌヂャナ工業団地、17日にはパトゥムタヌニヌ県のナワナコヌン工業団地が浞氎するなど、合蚈7か所の工業団地が氎没した。たた、措氎察策センタヌを眮くドンムアン空枯が浞氎する事態になったほか、氎による感電死の倚発により死者はタむ党土で800人以䞊を数え、措氎の被灜者は26郜県で200䞇人以䞊に及んだ。

プレアノィヒア玛争

タむずカンボゞアの囜境地域に䜍眮するプレアノィヒア寺院プラヌサヌト・プラりィハヌン遺跡が2008幎7月、カンボゞアにより囜際連合教育科孊文化機関ナネスコ、UNESCOの䞖界遺産に登録されたこずから、この寺院遺跡のある高台䞀垯を巡るタむずカンボゞアの領域玛争が再燃した。䞡囜軍が囜境地域で察峙し、2008幎10月より散発した戊闘による死傷者は数十人におよんだ。2009幎6月に銖盞アピシットがプレアノィヒア寺院の䞖界遺産登録の芋盎しを求めたほか、2010幎にはさらに玛争地域が拡倧した。この2010幎に埌の銖盞ずなるプラナット・チャンオチャが陞軍叞什官に就任しおいる。2011幎7月、囜際叞法裁刀所英: International Court of Justice、略称: ICJが囜境地域からの撀退を䞡囜に呜じ、むンラックが銖盞に就任した埌、同幎12月、䞡囜は同時撀退に合意した。その埌、2013幎11月に囜際叞法裁刀所が1962幎に次ぎ、プレアノィヒア寺院䞀垯をカンボゞア領ずしたこずにより、䞀応の治たりを芋せた。

2013幎反政府デモ

2013幎11月、タクシンの恩赊を可胜ずするタむ貢献党議員による法案の匷行採決が図られるず、民䞻党は猛反発し、反タクシン掟以倖も倚くがこれに抗議しお反政府デモは勢いを匷めた。この䞖論の反発により法案は吊決されたが、抗議デモを開催し、アピシット政暩では副銖盞であったステヌプ・トゥアクスパンは、むンラック政暩の打倒およびタクシン䜓制の根絶を蚎える倧芏暡デモの続行を宣蚀し、その埌の財務省の占拠をはじめ政府機胜に向けお過激なデモを匷行した。12月9日、むンラックは即時解散・総遞挙を発衚したがデモは止たらず、25䞇人が銖盞府呚蟺に集結した。12月26日には総遞挙の劚害を図るデモ隊ずの衝突により、死者2人・負傷者150人䜙りずなった。翌2014幎1月13日には、「バンコク封鎖」英: Bankok Shutdownず称しお、デモ隊が郜心郚の䞻芁7か所の亀差点を占拠する事態ずなった。2月2日に総遞挙が匷行されたが、各地のデモ隊の劚害などにより、それは有名無実なものであった。憲法裁刀所は3月21日、この総遞挙の無効を決定した。

2014幎クヌデタヌ

2014幎5月7日、むンラックは政府高官人事の違憲刀決により倱職し、ニワットタムロン・ブン゜ンパむサンが銖盞代行に就任したが、5月22日には囜軍が再び立憲革呜以降19回目のクヌデタヌを起こした。軍が党暩を掌握し暫定政暩を立おた埌、8月には最高暩力者である陞軍叞什官プラナット・チャンオチャ圚任2014幎-2023幎が銖盞に就いた。

2016幎10月13日、王ラヌマ9䞖圚䜍70幎が88歳で死去し、その埌、64歳のワチラヌロンコヌンがラヌマ10䞖圚䜍2016幎-ずしお新囜王に即䜍した。2017幎4月に新憲法が公垃されるず、2019幎3月の総遞挙を経お、プラナットが継続しお銖盞に就き、7月には新政暩が発足した。

脚泚

泚釈

出兞

参考文献

  • 坂井隆、西村正雄、新田栄治『東南アゞアの考叀孊』同成瀟〈䞖界の考叀孊⑧〉、1998幎。ISBN 4-88621-158-5。 
  • 柿厎䞀郎『物語 タむの歎史』䞭倮公論新瀟〈䞭公新曞〉、2007幎。ISBN 978-4-12-101913-4。 
  • 䞭倮倧孊政策文化総合研究所監修 線、柿厎千代 蚳『タむの歎史 – タむ高校瀟䌚科教科曞』明石曞店〈䞖界の教科曞シリヌズ〉、2002幎。ISBN 978-4-7503-1555-3。 
  • トンチャむ・りィニッチャクン 著、石井米雄 蚳『地図が぀くったタむ – 囜民囜家誕生の歎史』明石曞店〈明石ラむブラリヌ〉、2003幎原著1994幎。ISBN 4-7503-1819-1。 
  • 村嶋英治『ピブヌン – 独立タむ王囜の立憲革呜』岩波曞店〈珟代アゞアの肖像 9〉、1996幎。ISBN 4-00-004864-3。 
  • 吉川利治『同盟囜タむず駐屯日本軍 – 「倧東亜戊争」期の知られざる囜際関係』雄山閣、2010幎。ISBN 978-4-639-02160-5。 
  • 加藀和英『タむ珟代政治史 – 囜王を元銖ずする民䞻䞻矩』匘文堂、1995幎。ISBN 4-335-46016-3。 
  • 末廣昭『タむ 開発ず民䞻䞻矩』岩波曞店〈岩波新曞〉、1993幎。ISBN 4-00-430298-6。 
  • 末廣昭『タむ 䞭進囜の暡玢』岩波曞店〈岩波新曞〉、2009幎。ISBN 978-4-00-431201-7。 
  • 髙橋培『タむ 混迷からの脱出 – 繰り返すクヌデタヌ・迫る䞭進囜の眠』日本経枈新聞出版瀟、2015幎。ISBN 978-4-532-35654-5。 
  • 岩䜐淳士『王宀ず䞍敬眪 – プミポン囜王ずタむの混迷』文藝春秋〈文春新曞〉、2018幎。ISBN 978-4-16-661180-5。 
  • 石井米雄、吉川利治 線『タむの事兞』同朋舎出版〈東南アゞアを知るシリヌズ〉、1993幎。ISBN 4-8104-0853-1。 
  • 桃朚至朗代衚 線『新版 東南アゞアを知る事兞』平凡瀟、2008幎。ISBN 978-4-582-12638-9。 
  • 倧林倪良 線『東南アゞアの民族ず歎史』山川出版瀟〈民族の䞖界史 6〉、1984幎。ISBN 4-634-44060-1。 
  • 石柀良昭、生田滋『東南アゞアの䌝統ず発展』䞭倮公論瀟〈䞖界の歎史 13〉、1996幎。ISBN 4-12-403413-X。 
  • 石井米雄、桜井由躬雄 線『東南アゞア史 I 倧陞郚』山川出版瀟〈新版 䞖界各囜史 5〉、1999幎。ISBN 4-634-41350-7。 
  • 『岩波講座 東南アゞア史 1 原史東南アゞア䞖界』岩波曞店、2001幎。ISBN 4-00-011061-6。 
  • 『岩波講座 東南アゞア史 2 東南アゞア叀代囜家の成立ず展開』岩波曞店、2001幎。ISBN 4-00-011062-4。 
  • 『岩波講座 東南アゞア史 3 東南アゞア近䞖の成立』岩波曞店、2001幎。ISBN 4-00-011063-2。 
  • 『岩波講座 東南アゞア史 4 東南アゞア近䞖囜家矀の展開』岩波曞店、2001幎。ISBN 4-00-011064-0。 
  • 『岩波講座 東南アゞア史 5 東南アゞア䞖界の再線』岩波曞店、2001幎。ISBN 4-00-011065-9。 
  • 加玍啓良『東倧講矩 東南アゞア近珟代史』めこん、2012幎。ISBN 978-4-8396-0261-1。 
  • 荻原匘明、和田久埳、生田滋『東南アゞア珟代史 IV – ビルマ・タむ』山川出版瀟〈䞖界珟代史 8〉、1983幎。ISBN 4-634-42080-5。 
  • 倧野培『謎の仏教王囜パガン – 碑文の秘めるビルマ千幎史』日本攟送出版協䌚〈NHKブックス〉、2002幎。ISBN 4-14-001953-0。 
  • 根本敬『物語 ビルマの歎史』䞭倮公論新瀟〈䞭公新曞〉、2014幎。ISBN 978-4-12-102249-3。 
  • 癜石凌海『仏陀 南䌝の旅』講談瀟〈講談瀟遞曞メチ゚〉、2010幎。ISBN 978-4-06-258489-0。 
  • 鈎朚峻『扶南・真臘・チャンパの歎史』めこん、2016幎。ISBN 978-4-8396-0302-1。 
  • 北川銙子『カンボゞア史再考』連合出版、2006幎。ISBN 4-89772-210-1。 
  • 䞊東茝倫『ラオスの歎史』同文通出版、1990幎。ISBN 4-495-85541-7。 

関連項目

  • タむ王囜
  • タむ君䞻䞀芧
  • タむの銖盞
  • タむにおける政倉䞀芧
  • タむ倖亀史

倖郚リンク

  • “歎史”, amazing Thailand (タむ囜政府芳光庁), https://www.thailandtravel.or.jp/about/history/ 


タむの王朝遺跡叀郜アナタダの歎史ず䞖界遺産登録の理由 地方移䜏ず旅情報

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タむの歎史1 タむ王囜の創䞖蚘からアナタダ王朝!! 建囜の歎史ずは!? アゞアの歩き方

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【タむの王朝有名な歎史スポット】2月のメンバヌシップ限定ラむブ配信 YouTube

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タむ最叀の王朝がここに䞖界遺産「スコヌタむ歎史公園」でタむの歎史を感じよう RETRIP[リトリップ]

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芪日囜で有名なタむの歎史を玐解く タむの歎史や偉人を解説したす にほんご日和

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䞖界遺産のアナタダ遺跡矀を芋逃さないでタむ史䞊最倧の王朝が持぀歎史を孊ぶ

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【完党版】タむの歎史 第1郚叀代から栄華のアナタダ王朝たで 王囜の誕生ず繁栄の物語 旅暂道

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【䞖界遺産】アナタダ遺跡の芳光ガむド囜際貿易で栄えたタむ・叀代王朝の郜 おすすめ旅行を探すならトラベルブック(TravelBook)

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【スコヌタむ歎史公園】䞖界遺産であるスコヌタむ王朝の遺跡郡をたわる。すろヌタむ。

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タむの歎史1 タむ王囜の創䞖蚘からアナタダ王朝!! 建囜の歎史ずは!? アゞアの歩き方

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アナタダ遺跡矀スコヌタむ遺跡矀ぞ ロマン溢れる旅に出よう 【公匏】タむ囜政府芳光庁

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スコヌタむ王朝の歎史ずその遺産タむのルヌツを探る シラチャ進出・䞍動産投資

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🇹🇭「タむの歎史」総解説 YouTube

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【TBS䞖界遺産】スコヌタむず呚蟺の叀郜タむ700幎前タむの3぀の叀代郜垂【2月7日午埌6時攟送】 YouTube

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ã‚¿ã‚€ 王宮 の歎史・芋どころず芳光の秘蚣 タむランド画報 (ThailandGaho)

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タむの歎史に぀いおザックリ玹介〜5倧王朝〜 バンコクLABタむ語孊校

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【2025】タむっおどんな囜文化・食べ物・人柄から歎史たで、魅力あふれるタむ王囜を培底解説

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アナタダ歎史公園 ã‚¿ã‚€ 䞖界遺産の旅【HIS】

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昔のタむ王朝を感じる民族衣装むラスト No 25546312無料むラスト・フリヌ玠材なら「むラストAC」

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【タむ】400幎以䞊君臚したアナタダ王朝の歎史を培底解説 YouTube

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タむの歎史ず文化王朝の倉遷 タむの歎史は、珟圚の囜土に定䜏したさたざたな民族の圱響を受けながら発展しおきたした。叀くはモン族がドノァヌラノァティヌ文化を築き、埌にクメヌル王朝アンコヌル朝の圱響を受けたした。その埌、13䞖玀にスコヌタむ王囜が成立し、タむ民族䞻䜓の.. タむは東南アゞアで怍民地にならなかった囜家です。 そんなタむは歎史䞊にどんな王朝があったのでしょうか。 歎史䞊の人物や日本ずの関係ずずもに詳しく芋おみたしょう。 目次 1 タむの簡単な歎史幎衚2 タむの歎史2.1 叀代のタむ2.2 タむ族初